『居なくなる』について

友人が離れた土地で死んでしまった。

僕は彼女の恋人でも家族でもないただの友人というだけなんだけれども、それでもやっぱり居ないって事実はとても悲しい。その時の事について、書きます。弔いではなく、僕の心の整理という意味合いで。

共通の友人から僕に訃報が入ったのが、彼女が死んでから10日後のことだった。ご家族の話だと携帯にロックが掛かってるので彼女の友人達に知らせることが出来なかったらしい。連絡を聞いた僕はというと、信じられないというだけだった。実家の住所と電話番号を教えてもらい、本当に居ないのか確かめに行く訳ではないけれども、それと似たような感覚で次の日には、彼女の実家へ線香を上げに行っていた。

初めましてのお母さん。挨拶も早々に家に上げてもらう。居間の隣にある遺影と骨壷、また花束やお菓子や酒、戒名の札、それらを見て、本当に居ないんだなと実感した。『あれ?線香を上げる作法ってあるよな。この棒で音を鳴らす金属製のお碗を鳴らすタイミングってなんだっけ』みたいなことも思った。礼儀や作法を知らないという事はとても恥ずべき事だなと喋れない彼女を前にして思った。多分、これで合ってるんだろうと線香を上げ、碗を鳴らす。手を合わせ色々な事を心の中で語りかけた。
びっくりした事。とても悲しいという事。友人達がこれから線香を上げに来るよという事。後、線香の上げ方を間違ってたらごめんという事。そういう事を手を合わせ目を瞑り話しかけていた。声なんて返っちゃこないって分かってるけど、結構な時間語りかけていた。

その後、お母さんと生前の彼女がどんな子だったのか聞いたり、話したりした。この時、『あ、もう彼女の情報は新しく更新されないんだ』と気付き死んだという実感が更に湧いてきた。死んで悲しいというのは、もう更新されないブログみたいなもので、好きだったもの程、また更新されないかなって思っちゃう心理みたいなんだと思う。これは僕が友達だからなんだけど、恋人や家族だったらもっともっと人間らしい感情がこれに乗るんだと思う。更新されていく僕と止まってしまった彼女との時間の差は、これからどんどん遠く離れていってしまう。一緒に時間を生きられないという事が悲しいのだ。

今も生きていたらもっと話せたかもしれない。もっと仲良くなれたかもしれない。なんて、たらればの話をしたってしょうがないってのは分かっているけれど、もう居ないって事実が、その出来たかもしれない昔を加速させる。 死んでから会いに行ったって、灰になった彼女とはもう話せないし共有も出来ない。ただ、彼女の事は僕が死ぬまで忘れないだろうから、こういう後悔がないように僕は生きていかなければいけないんだろうな。

でも、居なくなっちゃうなよ。寂しいだろ。