2014/3/15の雑記

例えば、ネット上に置いて寂しさなんて簡単に埋めてくれるし、考えなくとも答えを提示してくれる人々がいるからその考えに則って生きるのは非常に楽である。


生きにくさを文章化して定義付けることにより仕事にしてる人達や、こうでなければならないや、ああでなければならないという他者の悟りのような価値観に触れて、自分はどうなのかと考えてしまう事もある。つべこべ何が正しいとか何も正しくないとか、わざわざ言う必要は全く無く、ただ本当に単純に、自分が自分として人と比べることもなく肯定し続けられる強さが欲しいと言えば、済むような事があるのではないか。人を害するような事がなければ、概ね正しく、その中で、所謂様々な価値観(AでなければBでなければならない等)に縛られて、社会的な側面で、根本の自分を押し殺したり我慢していたら、何かしら無理がたたるだろうなと、過去の体験を振り返り考える、


物事にアマゾンのレビューの様に、解を求めがちで(それは人よりも良く生きたいとか当たり前の感情で)その解を自分の人生に当て嵌めて、安心をすることもあるけれど、他人が他人として求めた解に自分を当て嵌めた所で、何も解決には至らない。己が生きてる人生って、人と比べるものだっけ?とかさ。比べてどうなるの?とかさ。そういう不定形な幸福の尺度を可視化(言語化により)されてしまうのが、ネット全盛の今だから人によっちゃ辛いよなと。


生きている理由を言語化して他者と比べやすくなってしまったから、〜は〜するべきや、AだからBであるや、〜男子、〜女子とカテゴライズすることにより安定を図る年代でもあるのだろう。


その中で、カテゴライズする事により不安を煽り、間違いなのかもしれないと風を吹かし、唯一の正しさを話すような輩は全てぶっ飛ばしても良いのかもしれない。皆違って、皆良いと当たり前の事を悟りの様に話す輩も疑って良いのかもしれない。人により正しさの選択肢は、山のようにありどれも人によれば正解であり間違いである。それを決め打つように、不定形な正しさにこれはこうするべきと話す輩は、疑ってしかると思うし、それに乗じて自分の思考を停止させ、誰かの正しさの上で生きていくのは、どうなのだろうかと考える。


誰かの意見は君の共感に繋がっても君の言葉で話せなければ君の意見ではないし、自分の言葉で自分を認められる(には至らなくとも自己憐憫のクソみたいな思考を伴わないで仕方ないけどこういう風に生きていると自身を把握できる)様にならないと。自分が、自分を肯定出来ることがあれば良いのでは。後は、誰かから愛されたいという気持ちや、それとは違うベクトルとして、大事にしたいという物や事や人がいる(ある)としたら見え方は変わるだろうか。(いや、僕も誰かに取っての他人なのだから君はどうなのか知らない)



君は君でいいし、僕は僕でいい。ただ、この関係性で僕が違うなと思ったら違うよと話すよ。という話も私見でしか無いという所で、この話は終わる。