『正面』について

■正面 http://miyamoto-shitisan.tumblr.com/
1 物の前の面。建築物などの表の側。おもて。
2 正しく向き合っている方向。まっすぐ前。
3 物事にまともに対すること。避けたりしないで、直接立ち向かうこと。

何故、僕が正面写真を撮る事になったのか話します。
それにはまず、僕の過去から説明しなければなりません。

僕は、自己肯定が出来ない人間です。長い間、母親から『必要ではない人間』『死んでほしい人間』として育てられてきたのが主な要因だと僕は考えます。彼女なりにも思うところがあって、このような育児方針だったとは思うのですが、一言で言えば人を生む資格の無い人の所に生まれてしまっただけの話です。しかし、産んでくれたことと、自分でも気に入っているこの名前を付けてくれたことと、何度も僕を殺そうとしたけれど殺せなかった愛情にだけは感謝します。

そんな家庭で長い間過ごし、20歳になる頃に僕は解りやすい形で失踪を遂げました。その時、付き合っていた方の家に転がり込んだのです。当時、受け入れてくれた彼が居なければ、今の僕はいないし人生も大きく変わっていなかったので、感謝しても感謝しきれない位、ありがたいと今でも思っています。

彼と同居して三年目の24歳の誕生日の日に、僕はその人から今も使っているカメラ(Nikon D3000)を頂きました。それからはカメラに慣れようと下手なりに、『365日写真を撮る』と言う枷を自分に設け、がむしゃらに写真を撮ってきました。※本ブログの2011年〜2012年あたりにその頃の拙いけれど勢いはあった写真が残っているのでお暇な時にでも、ご覧いただければ幸いです。

カメラを持った当時は、相変わらず自分が嫌いで、要らない人間だと思いながら生きていたのですが、その反面、自分を見つけて欲しい必要だと言って欲しい認められたいという気持ちが強かったと思います。でなければ、このような形で公開する必要はないのです。実際、とても幸せな事だとは思うのですが、必要だと言ってくれる友人や恋人が居たのに、それでも自己肯定が出来ず、言葉だけでは不安なので物に紐づいた確証が欲しかったのです。それが僕の場合は、カメラという道具であって、撮影するという行為は、十代の頃から抱えている悪夢からのリハビリのようなものだったと思います。

正面を始めるきっかけですが、ちゃんと好きになった人と色々あって僕が僕自身や人と向き合うという事を学んだ事が初めになっています。その時は、なんとはなしに撮ったその人の正面の写真が今に続いています。(正面には載せていません。相手もびっくりするだろうし、僕も僕であの頃の事を思い出すので、あまりちゃんと直視できません)あの頃、僕はとてもその人に迷惑を掛けてしまったし、僕も僕で泣いたのですが、僕は相手を思いやる尊重というものを何か勘違いしていたのだと思います。今となっては、何て顔をして会えば良いのかと言う状態ですが、もっと僕がしっかりした時にタイミングが合えばいつか会えるのかなと。いつかで。

もうすぐ僕がカメラを持って4年になります。最近になってやっと、昔と比べ自分は居ても良いと感じるようになってはいるので、自分なら何が出来るのか。何がしたいのか、何を見ているのかを考えて写真を撮るようになりました。人を扱うのであれば、ちゃんと写し撮って説得力のあるものを残さなければ、今やっている事に意味が無くなってしまいます。とても難しいところで、言葉では表現しきれない感覚的なものを取り扱う世界であると考えるので、それには自分の立ち位置を理解していないと、到底そのようなものを扱うことは出来ません。

その中の修行の一環として、写す技術や眼を鍛えるため、写す相手と撮る自分と向き合えるように、正面写真を撮っていっている状態です。技術的にもまだまだ未熟な僕ですが、これからも当ブログ『空気みたいな』と合わせて『正面』も宜しくお願い致します。

2013/8/29 21:16 宮本 七生